第14話 霹靂、青天を裂くように

第14話 霹靂、青天を裂くように

 グリューネが薬局の手伝いにやってきた、翌日の朝。

 休日ではあるが、フレデリックは常とさほど変わらない時間に起きてきて、朝食の支度を始めた。朝食のレパートリーは多くない。パン、そのときあるもので作れるスープ、炒めた卵。大体毎朝、そのようなメニューになる。ある程度作るものが決まっている方が、買い置きしておくものも、調理の手順も考えずに済む。食事にこだわりの少ない、ひとり暮らしの為せるやり方だったとも言える。

 この質素な朝食にご令嬢が苦言を呈するのではないかと思っていたが、今のところ彼女がそういった不満を漏らすことはなかった。それどころか、割と美味しそうに食べている。どうやら卵が好きらしい――よく大皿からおかわりしている――ので、最近は多少多めに用意することにしていた。たまには一緒にベーコンを焼くのもいいかと考えていると、グリューネが目を擦りながらリビングへやってきた。白く薄い瞼を、重たそうにしている。

「おはよう。まだ眠っていても良かったのに」

「眠かったらあとで昼寝をするからいいの。ごはんは出来たてがおいしいでしょう?」

「違いない。では紅茶を淹れる仕事をお願いしよう」

「……はあい」

 欠伸をしながら、彼女はポットとカップを湯で温めて準備をする。その様子もなかなか手慣れたものだ。紅茶の方を任せ、大皿に炒めた卵とベーコンを乗せて食卓へ運ぶ。先に自分の仕事を終えたグリューネは食卓について背筋を伸ばし、フレデリックを無言で見つめている。早く座れと言いたそうである。別に先に食べてくれて構わないのだが、これまでそのような習慣とは無縁だったのだろう。とにかく彼女は必ず、夫が食卓につくまで待っていた。

 向かい合って座り、食事を始める前に頂きますと述べてから、ささやかな朝食は始まる。――そういえば、ひとりの時は頂きますなどと、わざわざ言ったことはなかったとフレデリックは思った。

 食事の途中、グリューネが変な咳払いをしてから、話しかけてきた。

「……なかなか面白かったわ。薬局の手伝い」

 昨日の薬局は、随分と賑やかになった。あの後、集まった常連の客たちに結婚のことを説明――伯爵と打ち合わせした例の建前通りに――したところ、グリューネは人々に囲まれることになった。妖精令嬢の実態を知らない平民街の人間からすると、彼女は好奇心の対象のようだ。不快にならないか気がかりだったが、意外にも彼女は、時折文句を言いながらも彼らに応じてくれた。

 グリューネという少女が一番辛く感じることはおそらく、人に恐れられることだった。だから恐れることなく、いっそ不躾なほど踏み込んでくる人々のことを、不快に思わなかったのかもしれない。彼女は、額の花が飾りでないことを話した。聞いていた彼らは驚いて、その花をまじまじと観察した。フレデリックの助言で花をこのように残すようにしたら、好き放題に植物が生えてくることが少なくなったと話すと、人々は喜んだり盛り上がったり――特に女性客が――していた。

『まあ、良かったわねえ』

『じゃあフレッド先生のおかげなんだ』

『それがプロポーズを受けた決め手ってことね』

 ――等々。グリューネは顔を赤くしてあたふたしていた。

 とにかく、薬局の手伝いによって彼女は退屈を紛らわせて、価値のある体験をできたようだ。それはフレデリックとしても喜ばしいことである。

「そうか。それなら良かった」

「……また、手伝いに行ってもいい?」

「ああ。君が客の話し相手をしてくれると、俺も楽ができそうだ」

 静かに、しかし嬉しそうに彼女は頷く。その顔は満足そうで、頬には笑みが浮かんでいた。

 それからしばし、無言でそれぞれ食事を進めた。

 窓の外は晴れ渡り、穏やかな陽光が降り注いでいる。以前と何ら変わらない朝のひととき。ただひとつ、彼女がここにいる以外は。慣れてはきたが、自分の生活の中に自分では無いものがいるのは、どうにも変な感じがした。それが不快というわけではなく、ただ、ひどく似つかわしくないような気がした。

 グリューネは窓の外を眺めながら、千切ったパンを小さな口に運んでいる。十五歳の少女の横顔は、まだあどけなさを残してはいるが、一般的な感覚から言えば美しく整っていると言えるだろう。緩い癖のある幻想的な白銀の髪も、緑とも青とも明言しがたい、それらが混じり合ったような色の瞳も、妖精――多くの人々が想像する、美しい存在――と形容されるに相応しい。

 貴族は古くから、血統の優れたもの、そうでなければ、他者よりも美しい容姿を持つものを外部から一族に加えながら繁栄してきた。そうであるから、恵まれた容姿に生まれるものが平民より多いのは、遺伝的に当然のことだ。そうして彼らは、平民たちが見上げ敬い、憧れる存在として自らを作り上げていった。

 戦乱の世が終わり、平民が戦の中で立身出世を成し遂げるようなこともなくなった今、貴族と平民との間にある格差は、絶対的なものになりつつある。しかし、常に美しく貴い存在であれと義務づけられた側にも、それなりの苦労があるだろうことは想像に難くない。――あの環境で背筋を伸ばし続けることは、簡単ではなかっただろう。

 本来はこんなところにいるはずのない娘だ。生々しく額に咲いた、得体の知れない花さえなければ、グリューネ・シェーンヴァルトは何人もの貴公子に求婚されて、その中から我が儘に伴侶を決める権利を持っていたことだろう。父親との確執も無く、富と名声を約束された豊かな生活を得られたはずだ。それが何の因果か、こんな狭い家の、小さい食卓に並んだ質素な料理を食べて、何処の馬の骨とも知れない魔法使いの目の前にいる。

 十分な報酬を得た自分と違い、彼女はただ、自分で何も選ぶことができずにここへやってきただけだ。

 だからせめて、それに見合う報酬は用意してやらなくてはならない。それが夫としての責任だと、フレデリックは考えていた。

「ねえ、フレデリック」

 機嫌の良さそうなグリューネは、視線をゆらゆらと泳がせながら言った。

「この間、アルブレヒトと食事に行ったときも思ったのだけど。あなたは、親しい人たちには、愛称で呼ばれているでしょう? ……フレッド、と」

「愛称というよりは、単に短縮形として呼びやすさを重視しているのだと思うが」

 特にそう呼んでくれとフレデリックから言ったことはない。天文台でも平民街でも、自然と定着した呼び名だった。

「で……では、わたくしがそう呼んでも、別に問題は無いわよね?」

「ああ。君の好きに呼んだら良い」

「そうよね。他の人が親しげにそう呼んでいて、妻のわたくしが呼ばないのは、変ですもの」

 彼女は少し早口になってそう言いながら、何かに納得するかのようにうんうんと頷いた。そして食事を終えると器を片付けて、そそくさとリビングから退室しようとする。

「じゃ、じゃあ……わたくし、今日はお部屋で勉強をしようと思うから。あなたもゆっくりしてちょうだい。ではね――フレッド」

 そう言ってぱたぱたと、グリューネは階段を駆け上がっていった。階段を走ると危ないと言おうとしたが、あっという間に彼女は部屋に引き籠もったようだった。ありがたいことに、彼女は本を読むのが嫌いではないらしい。まだ読む本に不足してはいないようだが、図書館に連れて行ってやるのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、フレデリックも自室に戻り、積んでいる本を読み進めることにした。


 正午を過ぎた頃、フレデリックは数時間ぶりに時計を見た。そろそろ昼食の時間だ。自分ひとりでいるときには、空腹で無ければ昼食を抜くこともままあるが、年頃の少女の食事を抜かせるのは良くない。本を置いて、下の階のグリューネの部屋へ向かい、扉を軽くノックする。

 返事は無い。静かに扉を開いて中を伺うと、ベッドの上で横になっている彼女の姿が確認できた。部屋の窓は細く開いており、気持ちの良い風が吹き込んでいる。足音を立てないようにしながら近づいて覗き込むと、グリューネは読みかけの本を広げたまま眠っており、他にも読むつもりだったのだろう本が数冊、枕の横に積んである。広げたままの本を見てみれば、それは薬草の辞典で、積んである本も、薬や魔法に関係した本だった。勉強をすると言っていたが、薬局の手伝いのために選んだのだろうか。

 起こさないようにそっと、眠っている少女の頭を撫でた。起こすのが忍びなくなる、健やかな寝顔だ。柔らかな髪の感触はやはり、懐かしい何かを想起させる。もう少しで、それが思い出せそうなのだが――

 そのとき、来客を知らせるベルが鳴る。幸いなことに、グリューネはよく眠っていたのでベルの音で目を覚ますことは無かった。

 部屋を出て、階段をずっと下っていって玄関を開ける。すると、その先にいたのはよく見知った姿、天文科のマイヤ・ニッコラであった。

「こんにちは。急に訪ねてごめんなさい」

「マイヤか。どうした」

「このあたりへ出掛ける用事があったから、ついでにご挨拶をと思って」

 マイヤは手に提げた紙袋を軽く持ち上げて見せた。結婚の祝いにとのことだった。受け取って中を見ると、瓶に入った色とりどりのジャムとコンポートが入っていた。

「折角来てくれたところ申し訳ないんだが、実は今グリューネ――妻は、昼寝をしているところで」

「そうなんだ。じゃあ、寝かせておいてあげて」

「すまない。これは、あの子が喜ぶと思う。ありがとう」

 どういたしまして、とマイヤが微笑んだ。それから少しの間を置いて、再度マイヤは口を開いた。

「――フレデリック。今、少し時間はある?」

「差し迫ってすることはないが、何か?」

「ちょっと、相談したいことがあって」

 俯いて声を落とすマイヤの様子は、それなりの深刻さを伝えてきた。フレデリックからしてみれば、断る理由は特に無かった。人が良いというわけではない。単にたまたま手が空いていて、頼んできたのが同じ学府の後輩だから手を貸す。それが、彼の考える道理だからである。

「そうか。では、こちらで待っていてくれ」

 フレデリックは薬局の鍵を開けてから、一度リビングへと戻った。渡された手土産を食卓へ置いて、それと一緒にグリューネへ書き置きをする。それを残して、薬局へ向かった。

 薬局へ戻ると、マイヤは物珍しそうに中を眺めていた。そういえば、彼女はここを訪れるのは初めてだったかもしれない。フレデリックが戻ってきたのに気付くと、マイヤははっとしてからまた少し俯いた。

「……ごめんなさい、お休みの日なのに」

「構わないよ。それで、相談とは? 君が悩むようなことを、俺が解決できるかは分からないが」

「……ううん、大丈夫。これは、貴方にしか解決できないことだから」

 それは想定外の出来事で、警戒心が無かったとか、油断していたとか、そういう類いの問題では無かった。彼女が、そんな行動をするとは思っていなかった。およそ、理性ある正しい人間の道理では行わないようなことを、彼女がしたからだ。

 訝しげな顔をする男に抱きついて、女は彼の唇に自分のそれを重ねた。面食らって動けないでいる男を余所に、貪るような接吻は続き、ややあってから、フレデリックは彼女の肩を掴んで引き離した。女の顔には、恍惚と同時に苦悶が浮かんでいる。しっとりと濡れた唇が、震えながら言葉を紡ぐ。

「私を、抱いて、ください……」

 回された腕に力が込められる。女――それも普段身体など鍛えてはいない――の力など、その気になれば振り解けようものだが、不思議なほどその細腕には力が籠められていた。腕力以外の何か――必死さのようなものが、込められているようだった。

「貴方が好き。愛してるの。ずっと貴方のことを見てた。ずっと貴方だけを想ってた。……でも、諦めなくちゃならないから……きちんと諦めるから、ひとつだけ想い出を、私に、ください……」

 途切れ途切れに、女はそう呟いた。勿論、彼が必ずしも応じると思っていたわけではない。しかしそうでなくとも、多少なり女には、邪な期待があった。たとえ身体を重ねられないとしても、彼が優しい言葉をかけてくれるのではないかと。愛しい愛しいその声で、慰めてくれるのではないかと。

「――想い出、か」

 フレデリックが口を開いた。その表情は常と同じように色はなく――氷のように、冷たかった。

「君とはそれなりに、有意義な時間を共有できたと思っていた。君は俺の話を真剣に聞いてくれたし、君の話は関心を抱くに値するものだった。しかし――」

 一度言葉を切ってから、フレデリックはマイヤの目を見た。一片の優しさもなければ情もない、灯火のない夜のように暗い目だ。

「君は、これまでのその時間よりも、俺に不義を強請って得られる、一時の快楽を想い出にしたいと、そう言うんだな」

「――」

 マイヤはさっと血の気の引いたような顔になった。縋り付いて、ちがう、と小さく否定の言葉を口にしたが、男の言葉には少しの情けもなかった。

「何も違わないだろう。君は妻帯している男に、自分を抱けとその口で言ったんだ。愛だの恋だの、耳障りの良い言葉で、己の非常識な行動を正当化しようとしているだけじゃないか」

 彼の言うことに、間違いはない。嫉妬、渇望、独占欲、欲求不満。女の懇願は、あらゆる身勝手な感情を、『数年に渡る片想い』という美談で飾り付けただけ。知らぬ仲ではない女に懇願されて、それを受け入れる男も存在はするだろうが、少なくともこの男はそうではなかった。

「他人にさして期待などしていないが――ただ、残念だよ」

 男は無表情だった。しかしその態度ははっきりと、失望を、落胆を――あるいは悲哀を示している。女の震える腕が、解かれた。マイヤは後退りして、譫言のように呟く。

「わた……私っ……ごめ、なさい……っ」

 横を走り抜けて、マイヤは薬局から出て行った。大きく息をついてから、フレデリックは振り返って――そして再びの思考停止を味わった。

 振り返った先、薬局の入り口に――絶句したグリューネが、立っていたからだ。