fairy_chapter3_06

 ――熱い。
 熱い熱い熱い熱い。身体が焼けるようだ。炎が身体を舐めて爛れていくようだ。自分の身体は今、どうなっているのだろうか。火傷でぐちゃぐちゃになって、醜く悍ましい姿になっているのではないだろうか。どうなっているのか気になるけれど、同時に、知りたくないという気持ちがあった。

 その間にも、身体のそこかしこが裂けている感触があった。ずるずると這い出てくる茨。嫌だ。やめて。強くそう願った。しかしその生長は止まらない。どこからこんなに伸びてくるのだろうか。自分の身体が恐ろしくなった。そのうちに、内臓にまで何か生えてくるのではないか。それが肉を突き破って表面に出てくるのではないか。そんな恐ろしい考えがいくつも浮かんでくる。

 嫌だ嫌だ。怖い怖い。
 いやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

 その時、声が聞こえた。例の、空耳だ。

 ――だって、あなたに死なれたら困るのだもの。


 意識はそこで、途切れていた。次に意識が浮上したとき、そこは冷たい床の上ではなくて、柔らかくて馴染みのある、自室のベッドの上だった。
 瞼が重くて、全部持ち上がらない。視線を巡らせていると、傍らへ誰かが腰掛けたのが分かった。視界がぼやけていて、どんな表情をしているのかは分からなかったが、それが誰だかはすぐに分かった。その人は、たどたどしく頬を撫でる。その冷たい感触で、緊張の糸がぷつりと切れた。冷たい手に頬を押し付けるようにして、どうにか家に帰ってきたらしいことを噛みしめた。

「すまない。怖い思いをさせてしまった」

 聞き馴染んだ、フレデリックの声だ。その言葉に応えようとして、しかし上手く声が出ない。その代わりに小さく首を振る。何だって構わなかった。ここへ帰ってこられて、彼が傍にいるのなら、何だって。しかし、その手はもう一度頬を撫でると、するりと離れていってしまった。

「……少し出掛けてくる。おやすみ、グリューネ」

 穏やかな声がそう告げて、傍らの気配が遠ざかる。待って。行かないで。手を伸ばしたがったが、やはり身体が動かない。じわりと目頭に熱いものが溜まる感覚と、途方もない疲労感が押し寄せて、もう一度、意識が途切れて――

「――フレッド!」

 再度の目覚め。悪夢から転がり出るように、グリューネは叫んで飛び起きた。間違いなく、そこは自分の部屋だった。ベッドの傍らに椅子が置いてあって、先程のことが現実だったのだと理解する。フレデリックは、どこかへ出掛けていってしまったらしい。たまらなく不安になってベッドから飛び出し、部屋のドアを勢いよく開けようとして――しかしその瞬間に扉が開き、その向こうからやってきた人とぶつかってしまった。

「ひゃっ」
「おっと。目が覚めたんだね、お嬢様」
「あ――アルブレヒト?」

 意外な人物の訪れに、グリューネは目を丸くしてその人を見上げた。アルブレヒト・ホフマンは、フレデリックの親友を自称する天文台の魔法使いである。彼の名前や話題は頻繁に夫の口から出ては来るが、直接会うのはやや久しぶりだった。グリューネの驚いた顔が、ともすれば落胆のようにも見えたのか、苦笑いしながら彼は言う。

「ごめんよ。愛しの旦那様でなくて」
「そ、そんなことない。会えて光栄よ。……でも、どうしてここへ?」
「話すと少し長くなるんだ――食事を運んでくるから、食べながらにしようか。食欲はどうだい?」

 そう問われて、思い出したように空腹を感じた。もうすっかり日は沈んでいて、昼食は摂りそびれている。頷いたグリューネに、アルブレヒトは安堵したように頷き返し、それからグリューネの脈が正常か、顔色が悪くないか、発熱などがないかを確認した。彼もまた薬学科の一員であるため、傷病への対応は手慣れたものだ。

 散々茨が突き破っていた皮膚は、今はすっかり綺麗になっていた。その跡形も無さに、かえってぞっとする。自分の身体のことなのに、何も分かっていないことが恐ろしい。もちろん、傷痕が残るよりは良いのかもしれないが、消えた傷と一緒に、とても大事なことを隠され続けているようだった。

 ベッドに腰掛けて待っていると、ほどなくアルブレヒトが食事を運んできた。澄んだスープの中に、柔らかく煮込まれた鶏肉と野菜、雑穀が入っている。三口ほど夢中になってかき込んでから――少々行儀が悪いと思ったが――器に唇をつけてスープを啜る。薄めの塩味が、胃に染み渡るようだ。その間、アルブレヒトはやってきた経緯を説明してくれた。

 曰く、フレデリックに用事があり薬局を訪れたが、彼は留守だった。急用ができ早めに店仕舞いとなったことを、薬局を訪れていた客から聞いたものの、店の鍵が開いたままで不用心だと思ったアルブレヒトは、自主的に店番を行うことにしたのだという。アルブレヒトも魔法薬の販売資格は持っており、過去にもフレデリックが店を開けられないときに、代わりに薬局を開けていたことがあるのだそうだ。
 
 処方済みの薬を受け取りに訪れた客の対応しながら主の帰還を待っていると、いよいよその時がやってきたのだが――戻ってきたフレデリックは、気を失ってぼろぼろになり、茨を纏ったグリューネを抱きかかえていた。

 薬局に人がいたことに彼は驚いただろうが、アルブレヒトの驚嘆に比べれば、それは些細なものだろう。何があったのかという問いかけに、彼は簡潔に答えたという。不届きな魔法使いに、妻を連れ去られるところだった、と。細部が気にならないではなかったが、とにかく気を失った少女を放っておくことはできないので、部屋へ運んだ。鎮痛剤と麻酔を施して、生えてきていた茨を切り落とし、すっかり彼女が綺麗に元通りになった頃、彼は再度、外へ出掛けていったそうだ。――不届きな魔法使いに、話をつけてくると言って。

「……で、それであいつが戻るまで、俺がここに残ることにしたのさ。そんな話を聞いた後で、君をひとりにするのも不安だったからね」
「そうだったの。……ありがとう、アルブレヒト」

 話を聞き終えてから、グリューネはおどおどと切り出した。

「では、あの――見たのよね……わたくしの、その……」
「……ああ、見たよ。茨の生えた姿をね。確かに驚いた。俺も薬学科なんてところにいるから、植物のことにはかなり詳しい自信があったけれど、人から生えてくる植物なんてのは聞いたことが無いからね。でも、とにかく君が連れ去られずに済んで、本当に良かったよ」

 そう言ってアルブレヒトは笑って、食事のおかわりを勧めてきた。それならばともう少しだけお願いして持ってきて貰って、それを食べる。しばし、穏やかな沈黙が流れた。食べながら、こんな時だからか、気になってしまった。フレデリックの親友だというアルブレヒトは、彼のことをどれくらい知っているのだろうか。

「ねえ、あなたは……フレッドのこと……どれくらい知っているの?」
「うん? そうだね――俺も実のところ彼のことをよくは知らないかな。ただ、ワケありなんだろうってことが分かるくらいさ」

 一度言葉を切ってから、アルブレヒトは口を開いた。

「そうだな、君には話しても良いだろう。――たとえば、彼は俺と同期ということになっているけど、実際には少し違う。俺が天文台に研修生として在籍した年度の途中で、フレデリックがやってきたのさ。これはとても稀なことなんだ。天文台は原則、年に一度の入所試験でしか研修生の所属を認めていないからね」
「では、本当はあなたが少し先輩、ということ?」
「時期で言えばね。ただ、彼は入所してからその年度に行われた試験を個別に受けて、全て満点で通過している。だから便宜上、彼は俺と同期なんだ」

 新しく耳にする話を、新鮮な気持ちになって、グリューネは聞いている。アルブレヒトは続けた。

「彼を天文台へ推薦したのは、前学長であるトレイシー・ロバーツ氏なんだけど」
「……待って、《《ロバーツ》》と言った?」
「そう。フレデリックは、前学長の親類という体で天文台へ推薦された。――いわゆる|縁故《コネ》ってやつだね。異例の入所が成立したのには、ロバーツ氏の影響力が大きかったんだ。彼は歴代でもっとも称賛された学長だったからね」

 グリューネは眉を顰めて、その話を聞いていた。どうにも腑に落ちない。トレイシー・ロバーツ氏のことである。何故ならフレデリックは、自身を天文台へ誘った人について、《《たまたまメードライデンを訪れていた》》と言っていたからだ。そこに、縁故関係があるようには思えない。グリューネの表情を察してか、アルブレヒトが答えた。

「誰も彼も、本当にロバーツ氏の親類だとは考えていなかった。詳しい理由は分からないが、前学長が気まぐれに拾って連れてきたんだろうと、誰もが噂していたよ。フレデリックの評判はあまり良くなかった。だからあいつは、黙々と勉学と研究に打ち込んだ。『識欲魔人』なんて呼ばれるくらいにはね。そしてその成果で、『|王立天文台《シュテルンヴァーテ》』に相応しい魔法使いだと、証明したんだ」
「……ロバーツ氏は、その間どうしていたの?」
「どうもしないさ。彼はフレデリックに一筆持たせて、天文台へ行くよう指図しただけなんだ。ロバーツ氏は今も昔も、各地を転々としてるらしい」

 想像していた以上に、フレデリックのこれまでは変化の多い生活だったらしい。今朝、彼と話していたことを思い出す。

 ――いずれ君には話すべきだろうと思っていたから。

 フレデリックが、人の心に疎いのは間違いない。けれど、当たり前に人を気遣ったり、傷ついたりだってすることを知っている。知られたくないと思うことがあって、人の言葉を嬉しく思って、照れることだってある。心が死んでいるわけでは、決して無い。

 彼が気にしなかった――あるいは気づけなかった――だけで、彼の置かれていた状況は決して安泰では無かったはずだ。祖国を出て知らない国で、後ろ指を差されながら生活するのはどんなに居心地が悪かっただろう。そして、一体何が彼にそうさせたのだろう。

 そんなことを悶々と考えていると、アルブレヒトが追憶するように目を閉じて、笑みを浮かべながら語った。

「懐かしいな。俺も首都へ来たばかりの頃は頼れる人がいなかったから、ついお節介で、あいつに構ってたんだよ。当時から数少ない、薬学科の仲間だったから」
「アルブレヒトは親切だものね」
「思えば最初の頃、あいつは呼んでも返事もしないときがあったし、一緒にやる作業はひとりで勝手に終わらせてしまって報告もしてこなかったし、本当に協調性の欠片も無かったな」

 容易に想像できるその様子に、グリューネは思わず吹き出した。今でもフレデリックに協調性はさほど無いが、それでもまともになった方なのだろう。アルブレヒトのような、お節介を苦にしない貴重な友人が傍にいたおかげだろう。

「……知りたいと思ったりはしなかったの? 昔の話とか……」
「興味が無いと言ったら嘘になるけど、それほどでも無いかな。彼は天文台の仲間で、優れた才能と信念を持った人だ。俺は十年以上、彼が天文台の魔法使いとして相応しい人物であるよう努力してきた姿を見てきた。それに勝る真実は無いだろう? ――だから彼の過去に何があろうと構わない。俺はこれからも、フレデリックの親友だよ」

 そう言って、晴れやかな顔でアルブレヒトは笑う。つられて、グリューネの頬にも笑みが浮かんだ。この人はなんて清々しく、他人を信じられるのだろう。

 グリューネは、自分が嫉妬深い方だと自覚している。夫のことをずっと昔から知っていて、友人として長い時間を共にしてきたアルブレヒトのことが、内心とても羨ましい。男と男の友情は時に、どんな絆よりも固いものだ。古今東西の物語がそう伝えるように、この二人の友情もまたそうなのだろう。フレデリックは時々、この親友をぞんざいに扱うことがあるが、信頼しているからこその態度であろうことは、それとなく伝わってくる。

 羨ましい。けれどそれ以上に、フレデリックがひとりでなくて良かったと思った。少なくとも天文台に来てからは、この親切な友人が何かにつけて気にかけてくれていたのだ。そのことが、とても嬉しかった。

「……フレッドの傍に、あなたがいてくれて良かった」
「そうかい? そう思ってくれているのは嬉しいね。……俺も君が、フレッドの元へ来てくれて良かったと思ってるよ、グリューネお嬢様」
「……そう?」
「ああ。親友の俺が言うんだから間違いないさ。……君はこれから、あいつのいろんなことを知らなくてはいけない時が来るかもしれないけど――きっと上手くやれると俺は信じてるよ」

 優しく叩かれた背が、温かい。自分にとっても、この人がいてくれて良かったと、グリューネは思う。顔を見合わせて、笑いあった。

「少しお喋りが盛り上がりすぎたかな。もう少し休んだ方がいいよ。リビングにいるから、もし何か用事があったら、このベルで呼んでくれ。力一杯振ったとしても俺にしか聞こえないから安心して」

 そう言ってアルブレヒトは、銀色の小さなハンドベルをベッドの脇の小さな卓の上に置いた。魔法が施されているそのベルは|鳴子《クラッパー》がついておらず、軽く振ってみたが、音は鳴りようもない。しかしアルブレヒトにはきちんと音が聞こえているらしく、微笑んで頷いている。

「ねえ、アルブレヒト」
「ん?」
「……フレッドは、無事に、帰ってきてくれるかしら」

 その問いに、彼は片目を瞑ってこう言った。

「ああ、大丈夫さ。どんなことだって、あいつが誰かに手も足も出ない様子なんて、想像もできないからね」

 確かに、間違いない――ひどく説得力のあるその言葉に頷いて、グリューネは再び、目を閉じて眠りにつくことにした。左手を右手で包み込んで、薬指にはまった銀色の輪に、夫の無事を祈りながら。