rox_chapter3_06

 その女性は、華やかすぎない――しかしよそ行きだと一目で分かるようなドレスを身に纏っている。雨も日差しも降っていないというのに広げている、小振りの洒落た傘の下で、可愛らしく小首を傾げて問いかけてきた。
「あなたも、劇をご覧になった?」
「ああ――『シャグラン・ダムール』を?」
 カウフマンは彼女の登場に微塵も驚いて――ましてひとりでひどく感傷的になっていた――などと感じさせない、日頃の軽妙な調子に戻って言葉を投げかけた。褒められたことかどうかは賛否があるが、こと女性に対して見栄を張ることにかけて、彼は類稀な才能の持ち主だった。
「なかなか面白かったな。話題になるだけのことはある。結末が悲劇的なのも、意外性があった。――途中までは、あのまま幸せになるものと思っていたが」
 題名が題名であったから、このままで円満には終わらないだろうという予想がありつつも、主人公とアネットという娘の間に生まれた想いは、そんな予想すらひととき忘れさせるような確かなものであった。だからこそ、結末はある意味でショッキングなもので――劇場から泣いて出てくる人も少なくなかったのだ。
「そう、そうよね! 私もそう思ったのよ。ふたりは想いあっていたのに……どうしてあんな悲しい結末になってしまったのかしら」
 憂鬱そうに溜息をついて、彼女もまた欄干に身を寄せた。月明かりが映し出す、輪郭の滲んだシルエットすら美しい。心に決めたひとりがいなければ、この場で口説いていただろうな。そんなことを思いながら、カウフマンは付かず離れずの距離に留まった。少しの、沈黙があった。
「……想いあっていたからこそ、かもな」
 少なくとも、画家の男は自分の考える誠意を貫いてみせたのだ。それは娘にも伝わっていたのだろう、と思う。最後のシーン、アトリエを訪れた娘の表情からはそのように見て取れた。
 女性は、影のある微笑みを浮かべる。月光色の髪が、柔らかな光の束のように、夜風に靡いた。
「難しいわね。――でも、少しだけ……分かるかも」
 どこか、心当たりのあるような呟き。この美しい女性の人生にも、悲しい物語があったのかもしれない。そんな勝手な想像をした。だが、それを慰めるのは自分の役割ではない。どこかの誰かが、この人の影を晴らしてくれることを祈りながら、見なかったふりをして話題を変えた。
「で――アンタみたいな美人を放っておいて、連れは何をしてるんだ?」
 すると、女性は肩を竦めてくすりと笑う。
「まあ、お上手。でも、今日はひとりなの。連れてきてもらっても、良かったんだけれど……」
 その先を曖昧な微笑みで濁す様子には、言外に今日の観劇が彼女にとってなにか特別なものだったのだろうと感じられた。たとえば、余人に邪魔されたくないほど思い入れがあるとか、待ち遠しく思っていただとか。追求するのは野暮というものだ。カウフマンは同じように、曖昧に微笑む。
「そうかい。家の近くまで送っていこうか?」
「いいえ、大丈夫。このあたりは慣れているし――あなたは人を待っているのでしょう?」
 特にそのことは話していないはずだと思っていると、女性が付け加えた。
「ふふ――なんとなく、そう見えたの。当たってた?」
 カウフマンは肯定を意味して、苦笑いして後ろ頭を掻いた。彼女はゆっくりとした足取りで、数歩近づいてきて問いかけてきた。
「ねえ、あなただったらどう? 自分の愛する人には――自分がいなくなったあとも、ずっと自分のことを想っていてほしい? それとも、忘れて幸せになってほしい?」
 それは――『シャグラン・ダムール』の劇中の出来事。主人公である画家の男は、亡きフローレンスを想い続けた。新たに育んだ愛すらも、最終的には拒んでしまうほど。恋人への誓いを貫き通したことは、彼を幸福にしたのか不幸にしたのか。その後が描かれていない以上――真実は、観客の各々が空想するしかないものだった。
 けれど、たとえば自分なら。
「そりゃあ、忘れて幸せになってほしい。――……って、言えたら格好良いだろうけどな」
 人間は、『吸血鬼』とは違う。いつか必ず死ぬ生き物だ。それが遅いか早いか、あるいはどんな形になるかを、決めることすらできはしない。
「ずっと、憶えていてほしいよ。悲しくても、辛くても、苦しくても、ずっと」
 女性は目を一度丸くしてから微笑んで、言葉を返した。
「……それもまた、『愛の哀しみ』ね」
 彼女は更に歩を進め、カウフマンの横をすり抜けていく。そして一度肩越しに振り返ると、目を細めた。
「また会いましょう、欲張りなフローレンス。あなたのような人がいたのなら――あの子も角を折った甲斐があったのかも」
 あの子――? そう問いを投げかける暇もなく、女性は姿を消してしまった。走って行ったようには見えない。言葉通り、消えてしまったように見える。質感のある幻だったのか。あるいは――いや、考えるのはやめておこう。彼女は通りすがりの観劇客で、その感想を語り合っていた、ただそれだけなのだから。
 呆然と、人気の無くなった通りを見つめて、カウフマンは口元に手をやった。
「……欲張り、か……」
 呟いて、そっと目を伏せる。
 瞼の裏にすぐさま描き出せる、美しいあのひとの姿。その微笑みが向けられているだけで幸せだ。可能な限り長く、共にありたい。けれど、いつか別れるそのときには、どうしようもなく傷ついてほしいと願っている。愛している、故にこそ。

『ひどい男、あなたは』

 そう罵られたことを、唐突に思い出す。過去についた小さな傷。確かに愛だったもの。かつての恋人の言葉は、今思い返せばすべてが正しかった。ひどい男だったのだ。忘れられもしないひとがいるのに、目の前の愛情に甘え続けて、身勝手に手放すときには、これ以上なく傷付けた。そう、劇中の男のように、誠実にはなれなかった。
 ああ――まったく君は正解だったよと、届きもしない返事を呟いて、カウフマンは息をついて苦笑いするのだった。